京都で働くエンジニア社長の自戒ブログ

気づいた当たり前を、さも大事なことかのように発信します。

2022年に得たもの

本日、正確には昨日の12/29が仕事納めでした。 たった今、緊急の対応が必要になってオフィスに戻ったのですが、単純な設定の問題だったようで簡単な対応を終えた後、このまま帰るのもなあと思ってブログを書くことにしました。 多分誰も他人の年末の振り返りになど興味はないと思うので、あくまでも自分のために記録を残しておこうと思います。自分にはことあるごとに読み返してほしい。

2022年は自分にとって、本当に、とても歯がゆい年でした。

自分の会社には、初期にジョインしてくれた本当に頼り甲斐のあるマネージャーがいて、 その人が在職している時、自分はずっとコーディングに集中させてもらっていました。 2021年の6月にそのマネージャーが退職をすることになり、突如、マネジメント業務を自分自身で行う必要性が生まれました。 本当にどうしたらいいかわからず、これまでどれだけその人に甘えてしまっていたのかと実感すると同時に、 自分は経営者ながら、これまで経営というものに全く向き合っておらず、そもそも興味もなく、 単にコードを書いていただけだったんだなと思い知らされました。

やべえなんとかしようと、今はLayerXですが、当時DMMのCTOを務めていた松本勇気さんのブログを読んで、 そこで勧められていたアンドリュー・グローブの「HIGH OUTPUT MANAGEMENT」を買い、 自分なりの理想の経営者像を描き、経営者のように振る舞い始めました。

当初は、本当に課題だらけでがむしゃらに走るしかなかったのですが、 他に選択肢がないというビギナーズラックと、本当に優秀で熱いメンバーに恵まれ、 数ヶ月でそこそこうまく事業を軌道に乗せることができました。

そのままの勢いで、2021年の年末に単月黒字を達成します。 そこからは、順調に売り上げも伸び続け、少しだけ余裕が生まれ、自分に根拠のない自信がついて、 社員さんやインターン生に「おれ絶対成功する、だから安心してついてきて」みたいなことをよく言っていました。 これが、確か2月か3月くらいのことでした。

自分が今事業を展開しているドメインは宿泊業なのですが、創業当初から完全にコロナの煽りを受けまくっていました。 正直、3月くらいのタイミングでは、コロナの終息がいつになるのか全く見えない状態で、 作り上げたプロダクトも単月黒字を達成したとはいえ、一つ目のPMFを達成した程度だったので、 収益性をもっと上げていく方法を検討する必要がありました。 2021年7月以降、がむしゃらに走りはじめてから、初めて自分の前に選べる選択肢が現れました。

「待っていた時がきた!」と、有能感に包まれていた自分は、ウキウキしながら、あらゆる選択肢を検討し始めました。 既存プロダクトからtoCに寄せたプロダクトを作る選択肢、 既存プロダクトと同一ドメインで周辺領域を深く掘り、バーティカルSaaSを作る選択肢、 既存プロダクトをキャッシュエンジンとして得たランウェイで新規プロダクトを作る選択肢、などなど。

学生時代に働いていた前職では、R&D専門の受託開発をしており、月に2本程度アプリケーションを実装するのが常だったので、開発力には大きな自信がありました。 アイデアを思いつけばすぐに作れるからと、新規に事業計画を考え続け、幾つのプロダクトアイデアを作ったかわからないほどです。 しかし、結果的に、2022年のうちに一つもプロダクト化しませんでした。

そんな僕を傍目に、チームのメンバーは既存プロダクトの課題に真正面から向き合ってくれており、 改善を繰り返すことで、毎月毎月売り上げを順調に積み重ねてくれました。 プロダクトもエンジニアが献身的に機能改善を行ってくれて、どんどん使いやすく魅力的になっていきました。

「みんなこんなに献身的に結果を出してくれているのに、全然自分は成果を出せていない、経営者としてのバリューを全く発揮できていない。」 今思えば素直にそう思えるのですが、この時はその問題に深く向き合うことを避け、ただただ盲目的に自分を信じて次のプロダクトに集中し続けていました。

本当にチームのメンバーに感謝するしかないのですが、事業は伸び続けていたので、誰も知る由もないことですが、正直、今年の6月くらいから自分のプライドはズタズタでした。 心から「おれ絶対成功する、だからついてきて」と言っていた言葉は、いつしか自分に向けての言葉になり、すがるように発するようになっていきました。 8月の誕生日に彼女から何が欲しいか聞かれた時「欲しいものはないから、誕生日はSaaSイデアの壁打ち相手になって欲しい」と言っていたほどに毎日追い込まれていました。

このままだときっとこの大切なメンバーに愛想をつかれてしまうと、日々不安を抱えながら、 ああでもないこうでもないと、ただひたすらに逆転ホームランを起こせる新しいビッグアイデアを待ち続けていました。


これを書いていて、ふと高校時代のことを思い出しました。 自分には2つ上の姉がいるのですが、姉は高校に入ってからカフェで勉強をするようになり、家で勉強する姿をみることはなくなりました。 自分は、姉がカフェで勉強をしていることを知らなかったので、高校に入ったら勉強をしなくていいのかとマジで思い込み、 本当に高校の最初の2年間は勉強をせずに、ただ部活だけをして過ごしていました。 高校に入ってからの成績はクソみたいなものでしたが、そもそも全く勉強していなかったので特に気にしていませんでした。

高校2年の末に、親を含めた三者面談での進路指導があり、自分はその存在を全く覚えておらず、すっぽかしたので、結果的に親と担任の先生との二者面談になりました。 (これはいまだに全く覚えてないです。なんか姉の結婚式の時に親に言われて、え、普通に自分クズじゃんと思いました。親の語り草を見るに、多分この後親にしこたま叱られたはずですが、その記憶も全くないです。) 自分の親も高校教師で、担任の先生とも顔見知りだったことから、その場で担任に厳しく指導してほしいと頼んだのかはわかりませんが、後日、担任から進路指導で呼び出され二者面談を行うことになりました。 それまで自分は本当に勉強をしていなかったので、学校の成績を全く当てにしておらず、自分のことをマジで頭がいいと思っていました。 しかし、その場で担任の先生から「このままだと行ける学校ないよ」と告げられます。 プライドが高かった自分は「いやいや、それはねえわ、ふざけんな」と、とりあえず志望校を誰にも相談せずに東大に決めて、 基本的には学校の授業に出るのをやめ、学校の自習室にこもるか、授業に出ても授業を無視して問題集を解き続けました。 自分が通っていたのは公立高校だし、記憶の通りだとなんで卒業できたのかマジでわからないですが、この授業でないと卒業できないと言われた覚えもないので、多分ギリ授業はでていたのだと思います。

そんな感じで、半年ほど死ぬ気で勉強した結果、夏の東大模試でB判定を取りました。(ちなみにネタバレしておくと、この判定の得点源はほぼ数学でした。そう、運です。) そこで完全に気が抜けました。「ああ、自分やっぱ天才だったわ。絶対東大受かる。」以降、ノリで勉強をした結果。普通に落ちました。 この、ノリで勉強をしたというのは、自分の苦手分野だった英語や、東大受験で特に注力すべき理系科目をやらず、 単純に楽しいからという理由で、数学の難問と物理の微積を使った問題集ばかりをやっていたということです。 京都大学を受ける友人に数学でマウントを取るのを生き甲斐にしていました。(ちなみに彼は現役で京大に受かりました。)

落ちて、引きこもっていた自分は、地元の予備校にギリ特待生みたいな形で受け入れてもらいました。 予備校に入ってからも、プライドゆえ自分のスタンスを曲げずに、落ちたのは学習量が足りなかったからだと、あまり授業を聞かず、難しい問題集をやりまくっていました。 結果、めちゃくちゃ問題集をやったのに、春から夏にかけてクソほど成績が落ちました。なんなら夏の東大模試の判定もDとかに落ちた気がします。

メンタルがボロボロの状態で迎えた夏、ああ、もう自分の能力を過信するのはやめようと、徹底的に模試の結果と、予備校の先生のFBに向き合う決意を固めました。 それからは、とにかく予備校の授業の予習と復習だけをやりまくりました。新しい問題ではないので、全然面白くないのですが、とにかく無思考で解けるくらいまで予備校の問題をやり続けました。

そしたら笑っちゃうくらい成績が伸びました。 それでも当時は必死すぎて成績の伸びに全く気づきませんでした。 予備校の先生が「すごく成績が伸びてきたね」と言ってきても、 まだ満点を取れていないのに何をいっているんだ?こんな状態で受かるわけないだろ? と本気で思っていました。

試験当日、数学と国語を終えた、初日の帰り道、思ったより解けすぎて、泣きながら帰りました。 二日目、理科科目が終わった段階で、最終の英語の試験が始まる前に合格を確信していました。

帰ってからした自己採点は、自分に厳しすぎて渋かったのですが、 結果的には、かなり得点的に余裕をもって合格できました。 (二次試験は440点満点なのですが、自己採点と開示された得点の差が150点くらいありました。)


これまでこの受験期の成功体験は、僕の中で「ベストプラクティスに従うと結果が出る」と言語化していました。
だから、ビジネスで、経営者として窮地に陥っていた自分は、一旦自分の考えを捨て、なんらかの教科書に沿うことでこの泥沼から抜け出せるのではないかと考えていました。 従うべきベストプラクティスが見つかれば、きっと自分の考え方は変わって、全てが好転して、想像もできない成果を挙げられるはずだ。 とにかく本を読み漁ります。毎日のようにいろんなジャンルの本を買って読み、実践する。

少し考えれば当然なのですが、これで結果は出ません。 もしベストプラクティスがあるなら、一般的に起業の成功確率が低すぎます。 ビジネスは、変化する市場環境の中で行われており、あらゆる成功例は、特定のタイミングでの特定のドメインでの成功例であり、 完璧にトレースしても、再現性は高くありません。

ああ、どうしたらいいだろうと、ふと自分のSlackの日報チャンネルを見ていると、 日々、挙げているtodoがほとんど終わっていないことに気づきました。

「あれ、俺プロダクトを作ることをやりきれていない以前に、そもそも朝自分で定義したタスクすらやり切れてなくね?」

多分、ずっと気づいていて、見て見ぬふりをしていた問題に気がつきました。

目標から逆算して設定しているタスクをこなさない限り、 前進できないことは当然なのに、なぜタスクをこなしていないのか? 少し考えて、出した答えは単純でした。

設定している一つ一つのタスクのハードルが高すぎる。

自分は自分の能力を高く見積りすぎていて、常に完璧で理想的なアウトプットを自分に要求していた。 だから、最初の一歩を踏み出すことができずに、全部中途半端になっていた。

そして受験期の成功体験の言語化が誤っている可能性が浮かんできました。 受験期の成功体験は、「ベストプラクティスに従ったこと」ではなく、 「自分自身の能力を客観的に計測し続けていたこと」にあったのではないか。

「自分の能力は、自分が期待していたほど高くはない」

そう結論づけてから、不思議とすごく自信がつきました。

あらゆる目標は、アクションを積み上げることによって達成できる。 その一つ一つのアクションの難易度は、前進しているのであれば必ずしも高い必要はなく、自分でコントロールするべきもの。 どれだけ高い目標であっても、適切な難易度のアクションに切り分け、前進し続けることができれば、必ず実現することができる。

つまり重要なのは、自分自身の能力をできるだけ客観的に評価・計測し、認識し、 自分が実行できるアクション・こなせるタスクに関する解像度を上げていくこと。

現実と真正面から向き合って、理想状態とのギャップを認識し、 そのギャップを埋めていけるように実現可能なアクションを定義する。 それを積み重ねれば、絶対に目標を達成することができる。

人生もそう、会社もそう。 自分の人生の、全ての失敗は、自分や認めたくない現実と、真正面から向き合わないことによって起きている。

完璧な能力はないし、それゆえ完璧な事業計画もなければ、完璧な戦略もない。 自分に実現可能なアクションを通して、結果的に理想に近づけていくしかない。 重要なのは、現実をありのままに受け入れて、次に進むためのアクションを定義して一歩ずつ進むこと。 最初から完璧である必要はなく、人間の能力と時間は有限だからふつうに無理。 アクションによって、一歩ずつ着実に完璧に近づいていけばいい。

これまでの自分の特性は、

おそらく初期の学習曲線が急勾配で、最初はビギナーズラックで比較的成功する。そして調子にのる。 その後、しばらく停滞したあとに、反省して自分と向き合い、最初のやり方を改めることによって、再度成長曲線を描く。

ここでいう反省とは、自分と現実を客観的に評価・計測すること。 これは字面から感じることより遥かにきつくて難しいです。 ただ、こんなに大きくて豊かな発見は人生でそうあるものではありません。

迷った時や初心を忘れた時に読み返せるように、長めの記事にしました。

将来またスランプに陥った自分へ、

今自分への期待値が高すぎるよ。
お前、そんなに大したやつじゃないよ。
まずは目を背けている事実と向き合って、
実現したい目標を決めて一歩ずつ進もう。
まずはちっさい、格好悪いアウトプットを、
必ず決めた時間内にしよう。

2022年は、大学に入って以来、10年くらいなんだかずっと虚勢を張っていた自分を解放してあげるための年でした。 願わくば、現実を正しく受け入れることの価値を、これからの人生で一瞬も忘れないようにしたいです。

P.S.
もう一つだけ、今年得た大きな発見を
「自分と異なる意見だったとしても、相手にとってはそれが事実である」
コミュニケーションにおいて説得は不毛。まず相手の意見を事実として受け止めて、深く解釈する。