京都で働くエンジニア社長の自戒ブログ

気づいた当たり前を、さも大事なことかのように発信します。

哲学的真理探究の流れの自分なりまとめ(ものすごく簡素)

民主主義国家において、議論というスキルが重宝され、議論における必勝法として、プロタゴラスが、相対主義を提唱した。 相対主義的な議論によって堕落した民主主義に対し、ソクラテスは、無知の知を自覚させることにより、再び真理の探究に向けた好奇心を刺激しようとした。 ソクラテスの死を持って、相対主義により停滞していた哲学は、ゆっくりと真理の探究に向かい始めた。

時は経って、デカルトの時代。数学にも精通していたデカルトは、哲学も数学のように、数少ない公理から出発することで、人それぞれ異なるのではなく、誰にとっても正しい理論を構築したいと考えた。そして方法的懐疑を用いることで、あらゆるものを疑った結果、この疑っている自分の存在だけは疑えないと悟り、「我思う故に我あり」という言葉を残した。それを批判する形で、ヒュームは、私とは、継続された知覚の経験のことを言うのであって、それが実態と一致しているかはわからないとした。それに対してカントは、全ては経験であったとしても、数学や論理学のように、異なる経験をしていたとしても、その経験の形式は一致しているはずだとして、真理は、人間にとっての真理として存在するとした。このカントの主張に対し、ヘーゲルは、弁証法という形で、真理を戦わせていくことで、最終的に真理に辿り着くことができると説いた。一方キルケゴールは、いつ辿り着くかわからない真理よりも、私がそのために死ねると思えることを真理と呼ぶべきだと、実存主義を持って批判した。これらをまとめる形でサルトルが、自らが歴史をつくるべきではないか?とアンガージュマンたることを説いた。一方、元々サルトルと親交のあった、レヴィ=ストロースは、歴史は真理に向かって一通りに進んでいるという西洋的な見方を、構造主義によって批判した。

このような流れで、真理の範囲はどんどん狭まっていった。 その後、デューイが、便利なら真理という、プラグマティズムという考えを作り、デリダが、従来の西洋的な音声主義を批判し、本質的には意図を伝達することはできないとして、読み手主義を説いた。

デカルト以来、問われてきた「私」という存在に対し、レヴィナスは、どのような囲いを用意しても最終的に批判をしてくる存在として「他者論」をといた。